演繹帰納する社会人日記

生き方が定まっていない都内在住20代後半です。

【読書ログ】みんなちがってみんなダメ〜疲弊する現代人に送るココロの処方箋〜

年末年始は友達とお酒飲んだり、実家でゴロゴロして本と漫画を読みながらひたすら飯と酒を喰らい排泄する生活を送っていた。

 

新年一発目は中田考先生の「みんなちがって、みんなダメ」を読んだ。

みんなちがって、みんなダメ

みんなちがって、みんなダメ

 

 中田考先生は灘中・灘高を出て東大・東大院でイスラーム学を修了した経歴の持ち主で、恥ずかしながらこの本を手に取るまで認知していなかった。

この本は、「君たちはどう生きるか」へのアイロニーを込めた題名となっていて、本編でも盛大にディスって(?)いる。

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

正直、「君たちはどう生きるか」を読んだときは、他者と自己の間で繊細に揺れ動く少年の感情を美談チックに仕上げていて、道徳の教科書だなあと、それ以上でも以下でもないという薄っぺらい感想しか出てこなかった。 

さて、この書について先生は、

これはダメですねえ。呪縛の書というか、呪いの書ですね。」

から始まり、

「『自分の生き方を決定できるのは、自分だけだ』とあります。ここからもうダメです。自分の生き方なんて自分で決定できないんでね。それを決定するのは偶然や運ですよ。人は生まれも育ちも、それぞれちがうし、自分の人生を自分で決定できるということ自体が間違っている。」

コペルニクスはたまたま成功したけれども、大抵は世の中で言われていることと違ったことを行っている人間は間違っている。ほとんどの場合、周りに従っていれば正しいんです」(作中の主人公はコペルニクスの生き方に憧れている)

「聞くところでは、小山宙哉の『宇宙兄弟』とかアドラー心理学の解説書としてベストセラーになった『嫌われる勇気』とかを生み出したとても優秀なスタッフが舞台裏で作った本らしいです。皆が潜在的に持っている肥大化した自我を刺激するような話になっている」

その上で、肥大化した自我の受け皿になってくれるような観念を提供し、それが人を縛ることが罪深いと断罪している。

 

今日、今をときめく田端信太郎のツイートでも似たような言説があった。

(イケダハヤトさんの立ち上げた脱社畜サロンをめぐるゴタゴタの中での一言)

 個人で発信して、マネタイズもわりと簡単にできちゃういまの世の中。

「本来はミミズなのに、ヘビのふりをする」ことになってしまい、承認要求がそれに拍車をかけて凝り固まってしまうと、結果的に不幸になってしまうという先生の考えとリンクしているなあと思った。

信仰の世界、先生でいえばイスラーム教には、承認するのは神のみであり、神は基本的に生命として存在しているもの全てを承認しているので、そもそも信仰者も承認要求を持つ必要がない。その後の行いで天国に行くか地獄に行くかもあるが、地獄自体神様が作ったものなので、仮に地獄に落ちたとしてもある意味で神様から承認されている。承認され続けることの安心感というのは、信仰の世界ならではの特権でもあり、翻って経験的世界に住む我々にとっては、承認・評価されることを渇望し、ときには神経症になったりと、、いろいろいらぬ気苦労をし、そんな状況下、承認要求を求めてミミズなのにへびだと思ったり、バカなのにコペルニクスを目指そうするのである。

宗教、特にイスラーム教は得体のしれない存在ではあったけど、信仰を持つことの生きやすさは確かにあるんだなあと思った。

 

 

僕はこの本を機にイスラーム教徒になるとは考えていないけど、自分という人間を深く理解しないまま知らず識らずのうちにヘビの真似をしてみたり、それによって一喜一憂していたこともあったなあ、と読みながら気づいた。

新自由主義的で、自己責任論が蔓延する、すがるものが少ない現代において、そんなに肩肘張らなくても、バカはバカなりに慎ましく生きていくという考えがあるんだ、と知るだけで、昨日よりも少し生きやすく感じた。

もちろんときにはヘビにならないといけないときもあるかもしれないけど、そういう考えがあることを心の片隅にしまっておくことは、疲弊する現代人のココロの処方箋になりうるのでは、とおもった。

 

 「生きる意味なんて見出さなくて良い」

「人の存在に価値なんてない(価値は全て神に属する)」

「老人から権力を奪え」

知らず識らず植えつけられた価値観をことごとくぶち壊していく、まさに劇薬の本で、読後は一種のデトックス感を覚えた。

と同時に、承認要求供給機たるTwitterinstagramなどのSNSも一歩引いた目線で触ろうと思った。